草原ノ記憶



 彼が生まれた時、既に父親は亡くなっていた。他の部族との闘いで命を落としたのだ。母親も彼を産んで間もなく息を引き取った。血縁を失った彼は、部族全員の子として育てられたのだった。
 やがて彼が成長すると、亡父の跡を継ぐべく戦士としての訓練が始まった。武具の扱い方、様々な体術、狩りに必要不可欠な足音を消す歩き方…。そのどれもを、彼は必死で覚え込んだ。優れた戦士であったと聞かされた、顔も知らぬ父親に、少しでも近付きたくて。
 成年に達する頃には、既に彼は一人前の戦士として認められていた。部族を守る大切な役目を仰せつかり、数々の武勲を上げ、狩りに出て大きな獲物を仕留めて…。かつて亡き父がそうであった様に、彼は部族の為に戦い続けた。

 ある日、狩りに出た時の事だった。前方に羚羊の群を見付けて立ち止まる。何時の間にか仲間とはぐれ、彼は一人だった。
 最近は部族間の争いが続き、食料が不足気味なのを承知している。彼は勇み立った。
 仲間を探している暇は無い。気配を悟られれば敏感な草食動物は逃げてしまう。彼は群をよく観察した。中にまだ稚い仔を連れた母獣を認め、標的を定めた。仔連れの動物を襲うのは危険だが、巧くいけば抱共々仕留められる。
 先ずは仔羚羊を。これは殺してしまってはいけない。しかし動けなくなる程の手傷を負わせて。次いで傷付いた仔を護る為に留まるであろう母羚羊を倒す。そう手順を思い決めて、彼はソロソロと群に近付いた。
 弓を構え、矢筒から二本を取り出す。抱を間髪を入れずに倒す為だ。彼はゆっくりと呼吸を整え、狙いを定めた。機会は一度きり。決して外せない。
 限界まで引き絞られた弓が、キリリと微かな音を立てる。瞬間、彼は息を止めた。ソッと前方の獲物の様子を窺う。大丈夫、気付かれてはいない。そして…。
 狙い違わず、彼の放った矢が仔羚羊の喉元に突き刺さる。深過ぎず浅過ぎず。音を立てて崩折れる幼獣。動けない仔を護る様に、母羚羊は傍らに立ち尽くす。彼はすかさず第二の矢をつがえた。
 その時だった。母羚羊が彼を真直ぐに見据えたのは。恐慌状態で逃げ惑う群の中、彼女だけがじっと佇んでいる。
 彼は何故か動けなくなる。気持ちばかりが逸る。早く仕留めなければ。頭では理解していたが、体が動かない。母羚羊の哀しげな瞳に縫い止められて、身動き一つ出来ないでいた。
 どの位の間、そんな風に見つめ合っていたのか。唐突に人の気配がして、動かない母獣に無数の矢が奔る。部族の仲間が彼を見付けたのだ。鈍い音が響き、彼女は我が仔の傍に倒れ伏した。未だ彼を見据え、その姿を瞳に映した儘で。
 彼はただ、その光景を呆然と見つめていた。

 村に帰り、久々の獲物に湧き立つ仲間を余所に、彼は独り浮かない顔をしていた。
 あの母羚羊の眼差しが脳裏から離れない。恐いくらい真直ぐで、深い哀しみに満ち溢れて。我が仔の命を奪った彼を、じっと見据えていた。
 今までこんな事は無かった。戦士として、部族の敵を殺め、数多の獣を倒してきた。その事に誇りを感じこそすれ、落ち込んだりしなかった。
 今回に限って、何故だろう?彼には分からなかった。ただ、我が目に焼き付いたあの双眸は、何時までも忘れられない。そんな気がしていた。

 その後もずっと、彼は戦い続けた。亡父の名誉を護る為に。自分を育んでくれた部族を守る為に。彼はその全てに勝利を収めた。
 しかし二度とそれが彼を昂揚させる事は無かった。敵を殪す度に、獲物を倒す度に、蘇るのだ。仔を喪った哀しみに満ちたあの瞳が。最期の瞬間まで自分を見据えていた、真直ぐな眼差しが。彼を捉えて離さなかった。
 それでも尚、彼は戦いを止めたりはしなかった。草原に倒れ伏した羚羊母仔の記憶は、その後も度々彼を襲ったけれど。脳裏に潜むその哀しい眼差しの意味は、彼には遂に分からなかった…。

 

―― Das Ende. ――



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