その湖の畔では、不思議な音が聞こえる事がある。それは澄んだ鐘の音にも似て、朗々と湖面に響き渡る。そして漣と共に暫く水面を漂い、やがて静寂に溶け込み消えていく。それはまるで、遠い記憶を呼び覚ます様に、聞く者の心を郷愁で満たす。
何処からともなく聞こえるその音は、かつて水没した尼僧院の鐘だという。在りし日に道を説き給うた尼僧達が、湖の底で今も尚、祈りを捧げているのだと。村人達はそう信じている。
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其処にはかつて、一つの村があった。住人全てが互いに知り合いという、そんな小さな村。人々は其処で身を寄せ合う様に暮らしていた。直ぐ傍には大河があり、豊富な水量で村を潤してくれた。河の上流に設けられた水門が、その水勢を調節していた。
村の中心には尼僧院があった。朝夕には若い尼僧が祈りの刻を告げる鐘を鳴らし、日曜の朝には人々が礼拝に訪れた。そして物柔らかな声が説く神の御言葉に、じっと耳を傾けるのだった。殊更に神の威光を振り翳したりはせず、ただ神の寛恕と恩寵をのみ語り聞かせる。それ故に、院長を務める年老いた尼僧は、村人達から母の如く慕われていた。
片田舎の小さな村に、然程の大きな変化がある訳もない。穏やかで平和な日常に、けれど人々は満ち足りていた。何を思い煩う必要も無い儘に、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返す。
そんな平穏な日々が続く事。ただそれだけを、村の人々は望んでいたのだ。尼僧達の説く神の教えを守り、今のつつましやかな生活を護る事。それが彼等の願い。そのささやかな望みすら分不相応だと、誰が言えただろう。
それは突然の出来事だった。何日も降り続いた雨が漸く止んだその日、上流の水門が決壊した。長雨で増水していた河は、文字通り堰を切って下流を襲った。轟々と唸りを上げて逆巻く濁流が全てを飲み込んでいく。
村人達が異変に気付いた時、水流は既に近隣の村まで届こうとしていた。最早何の備えをする余裕もない。彼等に出来るのはただ、取る物も取り敢えず、着の身着の儘逃げ出す事だけだった。
人々は村中の馬車という馬車を ―― 荷馬車も含めて ―― 尼僧院の前に集めた。それはけれど、全員が乗るには明らかに足りない。誰を乗せるのか。誰が留まるのか。取り残される事は即ち死を意味する。躊躇している場合ではないと知りつつ、皆の動きが一瞬止まった。
困惑と疑心が人々の心に芽生え、泡や噴出しようという瞬間。穏やかだが断固とした口調が飛ぶ。
「まずは子供とその両親を乗せなさい。」
振り返る人々の視線の先に、きりりと眦を上げた尼僧院長が立っていた。誰かが辛い決断せねばならない。ならばそれは自分の役目だと、そう思い決めた固い表情。
「そして次に若者達を。まだ余裕があれば壮健な者から順に。」
「年老いた者、病に掛かっている者は、どうぞ尼僧院へお入りなさい。」
「未来ある者達にこそ、生き残る望みを。」
立て続けに言って、彼女は人々を見渡した。我に返った人々は、従順にその指示に従った。言われた通りの順番で馬車に乗り込む。そして残った僅かな隙間を示し、彼女に呼び掛けた。
「さぁ、尼様方も早く馬車へ。」
けれど年老いた尼僧は首を横に振った。
「私達は、此処に残ります。」
「それでは尼様が…」
「私達だけで行けと仰言るのですか?!」
口々に叫ぶ人々を制し、彼女は静かに微笑んだ。晴れやかに、人々が母と慕うあの優しい表情で。
「私達は此処で、村に留まる方々と共に、皆様の無事を祈りましょう。」
彼女の背後に従う尼僧達も黙って頷く。
「全ては、神の御心の儘に…。」
そう言って瞠目する。もうこれ以上、話す事は無い。沈黙で示す彼女に、誰も何も言えなかった。
後ろ髪引かれる思いの儘、漸く馬車は走り出す。水は直ぐ其処まで迫っていた。
尼僧達を残して発った人々は、何度も何度も後ろを振り返った。生まれ育った土地を追われ、魂の導き手をさえも失いつつある、その心許無さ故か。誰もが無言の儘、遠ざかる故郷を見詰めていた。迫り来る水の恐怖からだけではない、引き裂かれる様な心の痛みを感じつつ。それでも先を急ぐ。神が与え給うた猶予は、余りにも短い。
その時だった。轟々と騒ぐ水音を縫って、澄んだ鐘の音が届いた。今日までずっと、毎朝夕に聞き染めた、懐かしい響き。あの尼僧院の鐘の音だった。
普段なら、其処に住まう尼僧達の慈愛に満ちた微笑その儘に、柔らかで優しい音を奏でていた筈なのに。それが今は、闇を切り裂く様な硬い金属音が、高く低く、途切れる事なく鳴り続ける。悲痛なまでに荘厳な響きで、聞く者の胸を打つ。
それは尼僧達の祈りだと、彼女達を置き去りにした自分達への餞だと。そう悟った人々は落涙した。張り詰めた緊張の糸が途切れた様に、まるで母と逸れた幼子の様に。遂には声を上げて泣き叫んだ。
けれどもう、後戻りは出来ない。今となっては立ち止まる事すら許されない。そんな切迫した事態の中、鐘の音は止まず鳴り響いていた。己が運命を甘受し、立ち去る者達の無事を願って。
尼僧達の最期の祈りを込めた鐘の音は、村全体が水に覆われるまで、決して止む事はなかった。
夜が明けて、漸く水勢が収まった時、村があった場所には大きな湖が出来ていた。建物という建物は全て水中に没し、あの尼僧院の尖塔ですら例外ではなかった。濁流から人々を護るが如く、夜通し鳴り続けた鐘も、尼僧院もろとも湖底に沈んだのだろう。最早微かな残響さえ聞こえない。
生き残った村人達は、湖の直ぐ傍に移り住んだ。そして小さな教会を建て、亡くなった人達を弔った。懐かしい人々の眠るその場所で、彼等は新しい生活を始めた。誰も皆、生きる為に精一杯で。過去を振り返る余裕も無い儘に、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を遣り過ごす。
痛ましい記憶は胸の奥深くに仕舞われ、やがて風化していった。今はもう、語られる事もない。
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それでも時折、その湖の畔では、不思議な音が聞こえる事がある。それは澄んだ鐘の音にも似て、朗々と湖面に響き渡る。そして漣と共に暫く水面を漂い、やがて静寂に溶け込み消えていく。それはまるで、永遠に喪われた何かを悼む様に。過ぎ去りし遠い日々を懐かしむ様に。
何処からともなく聞こえるその音は、あの尼僧院の鐘だという。在りし日に道を説き給うた尼僧達が、去り行く人々の無事を願い、最期の瞬間まで鳴らし続けた鐘の音だと。昏く深い水の底で、彼女達は今も尚、祈りを捧げているのだと。村人達はそう信じている。
真偽の程は誰にも分からない。けれど人々は、悔恨と贖罪を込めて、その鐘の音に耳を澄ますのだ。



