彼女は密かに恋をしていた。相手は既婚者で、いわゆる不倫という奴だ。しかし彼女にしてみれば、偶々好きになった相手に家庭があったというだけの事。彼女はそれを取り立てて気にしてはいなかった。
妻の座を欲してなどいない。時々会って、二人きりの時間を過ごして。再び彼を家庭に送り返す。何かの記念日に拘る程幼くはないし、休日に家族から彼を奪う積もりもない。
この儘こんな関係を続けていけると思っていた。それ以上の事など望まない。彼女には、それだけで充分だったのだ。
『今夜、君の部屋に行く。多分二十時前になると思う。』
久し振りに彼からそう電話があったのは、まだ昼前の事だった。彼女は勿論、二つ返事で承諾した。
仕事帰りに買い物をして。二人分の夕食を用意して。部屋を片付けて花を飾り、ワインを冷やして。後は彼の到着を待つだけだ。
そして彼女は待った。約束の時間のかなり前から、ずっと。それが当に過ぎ去っても。それでも、彼女は待ち続けていた。
気が付けば、時刻は既に二十一時を回っている。彼女は心配になってきた。彼に何か遭ったのだろうか?
彼の携帯に電話しようと思い付いて、しかし彼女は受話器を置いてしまう。もし本当に彼の身に何か遭ったとしたら。その場合、電話に出るのは彼の妻だという事に、気付いてしまったから。況して会社や自宅に連絡など出来る筈もなかった。
彼女は愕然とした。彼にもしもの事があった時、自分にはソレを知る術は無いのだ。今更ながら、その事実に思い当たる。彼女は悄然と項垂れて、ひたすら彼を待ち続けた。
漸く彼から連絡があったのは、二十二時を過ぎた頃だった。
『済まない。仕事が長引いた。』
やはり今夜は行けないと告げる彼に、彼女は分かりましたとだけ答えた。その短い台詞は至極平坦で、先刻までの苦しみは微塵も感じさせなかった。
今度きっと埋め合わせをするから。彼の言葉は続いていたが、彼女は受話器を置いてしまった。
『私達、暫く会わないでおきましょう。』
静かな口調でそう告げて。電話を切った彼女は何かに耐える様に目蓋を閉じた。
再度電話のベルが鳴る。ディスプレイに彼の携帯番号を確認した彼女は、二度と応答しなかった。長い間、何度も繰り返し、ベルは鳴り響いた。その傍で彼女は、両手で耳を塞ぎ、泣きながら蹲っていた。
彼女は悟ってしまったのだ。自分がどれ程不安定な立場に在るのかを。もう沢山。こんな想いは、二度と堪えられない。
彼と別れなくては。初めてそう思った。それが辛くて、また新たな涙が零れる。自分がどれ程彼の事を好きだったのか、今更の様に思い知らされる。
そうやって、彼女は一晩中ずっと泣き続けていた。まるで大切な宝物を失くした幼な子の様に。何時の間にか電話のベルが止まっても、溢れ落ちる涙は止まらなかった…。
夜が明ける頃になって、漸く彼女は泣くのを止めた。辛くても、哀しくても、新しい一日はやって来る。今はこんなに切なくても、それでも時間は流れていく。
その事にやや苛立ちながらも、彼女は立ち上がった。熱いシャワーを浴びて、身支度を整えて。仕事に出掛ける準備をする。私事に思い悩むのは後回しにして。
夜になって、仕事を終えて、一人きりの部屋に戻ったら。自分はまた泣くのだろう。何時までも、失くした宝物を諦め切れない子供の様に。
そんな風に自分を嗤う彼女の瞳には、まだほんの微かに、涙が滲んでいた。自分では気付かなかったけれど。
昨夜の名残のその雫は、暫くの間、瞳の端で煌いていた。