遥か太古の昔の事です。かつて、氷河期と呼ばれる時代がありました。地表の全てが氷に覆われて、沢山の生き物が死に絶えていきました。勿論、私達の祖先も例外ではありません。殆どの人間が寒さと飢えの為に命を落としたのです。この儘では死滅してしまいます。ある者は少しでもマシな土地を探して彷徨いました。またある者は狭い洞窟に逃げ込みました。でも大半の人達は為す術も無く、ただ待ち受ける死の腕に傾れ込むしかなかったのでした。
そんな中で、極少数の者達だけが、大地を捨てて海へと向かいました。海だけはまだ、完全に氷に支配されてはいなかったから。凍て付いた地上よりも暖かで、餌となる生き物も多く生息していたから。確かな足懸りを失う代わりに、過酷な環境からも隔てられて。彼らだけは何とか生き延びる事が出来たのです。
棲み慣れた大地を捨てた人間は、少しずつ海に適応していきました。冷たい水に体温を奪われない様に、皮下脂肪を蓄えて。水が気道に入らない様に、口腔内の構造を変えて ―― 己の吐瀉物で窒息死できるのは、哺乳類では人間だけだとか。更に、殆どの動物は生まれて数時間以内に走れるのに、人間の赤ん坊が数年もの間満足に歩けないのも、水の中で自重を支える必要が無かった頃の名残だそうです。そうやって、人間は自分達を水棲動物へと変えていったのです。
けれど…例えどんなに新しい世界に馴染んでも、海に棲む人々が大地を忘れる事はありませんでした。暗く冷たい水の中で、息を潜める様に生きながら。何時かきっと、陽の光射す世界に戻りたい。再び両の足で大地を踏みしめて暮らしたい。そんな風に、ずっと想い続けていたのです。
やがて氷が溶けて、再び大地が息を吹き返した時。人間は再び海を捨てて地上へと生活の場を移しました。明るい世界で、堅固な地面に支えられて。人々は少しずつ忘れていったのです。かつて自分達が海の懐に抱かれていた事を。昏く冷たい水の中で、大地に憧れていた事を。その優しい腕に包まれて、再び地上に還る日までの間、大切に護られていた事を。忘却の彼方へと追い遣っていったのです。
けれど、それでも尚、その記憶は確かに残っているのでしょう。それはまるで、人間の血の一滴が海の水に酷似している如く。厳しい苦難の時を支えてくれた海を、それと気付かずに想い続けているのかも知れません。
海が大地に打ち寄せる様に。大地が海に寄り添う様に。何時か再び、この世界の全てが一つになる日まで。海と大地への郷愁の記憶は、絶える事なく受け継がれていくのでしょう。
―― Das Ende. ――