虚空夜



 静かな夜。昼間の喧騒も夢幻の如く掻き消え、人々が寝静まった頃。未だ訪れぬ人を待ち続ける女が一人。闇に閉ざされた室の隅、身一つには広過ぎる寝台に横たわり、身じろぎもせず虚空を見据えている。
 我は一体、何を思うてか、斯くも長き夜を寝もやらで待つや。彼の人は今宵、御渡りになるや否や、それすらも定かではないというに。否、もしかしたら。今頃は疾うに、誰方かの元で安らいでおられるやも知れぬ。
 そう思えば更に、心が騒ぐ。考えまいと努めても、闇にほの白く浮かび上がる、数多の美姫の貌。今頃は彼の人の胸に抱かれて、忘我の境地に遊んでいようか。それとも既に狂熱の荒波は過ぎ去り、気怠い微睡みの海をたゆとうていようか。己が浅ましさに戦慄すら覚えつつ、それでも想いは止まず、黒き翼もて飛翔する。
 女は遂に硬く目蓋を閉じ、己が顔を両の手で蔽ってしまう。もしも叶う事ならば、いっそこの儘、周囲の闇に同化してしまえば良いものを。そんな埒も無い事を願う。
 彼の人は、未だ世間を知らぬ童女の我を、想うて下さったのでは無かったか。今更に我を捨つるなら、何故あの時、馬上より御手を差し伸べられたか。何故あの時、寄する想いを熱き言の葉に乗せられたか。然様ならずんば、今も尚、我は父母の庇護の下に安寧であったろうものを。
 驚き惑う父母の嘆きも余所に、雲上人に請われた誇らしさに溺れ、我と我が身を差し出したあの時。あれが我が幸いの頂とは、未だ知る由もなく。彼の人が、最後に我が元に渡らせられたのは、何時の事であったろうか。
 はらはらと流れる涙を拭おうともせず、女は懸命に記憶の細い糸を辿る。けれどそれは、却って独り寝の無聊を弥増すに過ぎぬと知り、深い溜息を吐く。
 甲斐も無き事。そう呟き、女は唇をきつく引き結ぶ。きりりと微かな音がして、口端に紅の一滴が零れる。彼の人には最早、我が如き、眼中にあらざるか。女は再び手で顔を覆う。その白き繊手の合間より、新たな涙が流れ落ちる。未だ我は、斯くも御慕い申し上げているというに。
 夜更けて尚、未だ訪れぬ人を待ち焦がれる女が一人。闇に閉ざされた室で、来ぬ人の為にと焚き染めた香が、閨に聊かの華やぎをと活けられた花々が、甘く薫り立つ。
 如何様、甲斐も無き事かな。

 

―― Das Ende. ――



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