ある朝僕は、気球に乗って旅に出た。
荷物はリュックサック一つ。中身はサンドウィッチと林檎とチョコレート、それにアーミーナイフ一本。旅支度は身軽な方が良い。
気球は重力の鎖から解き放たれ、緩やかに空に上っていく。やがて地面が遠ざかり、眼下に町の全景が広がる。家はもう見えない。
頭上に広がる青空を見上げる。ちっぽけな悩みなんか吹き飛んでしまう様な。嫌な事全てが吸い込まれてしまう様な。何処までも澄んだ青が広がる。
時折、鳥達が寄って来る。仲間と間違えてるんだろうか?それが何だか可笑しくて、僕は思わず声を上げて笑い出す。最高の気分だ。
やがて気球は町を離れ、田畑の上を通り過ぎる。手を止めて見上げる人々に、僕は大きく両手を振ってみせる。幾人かが手を振り返してくれて、僕は嬉しくなってしまう。大空を行く気球は、彼等の目にどんな風に映っているのだろう?
幾つもの町を通り過ぎ、広い丘を越えて。気球は風に乗って何処までも漂って行く。僕は一人、青空を見上げ、眼下の光景を見下ろす。何処までも広がる空間は、まるで僕の心をも寛げてくれる様だった。
コレを独り占めしてるのは、何だか勿体無い気がするなぁ。
そんな風に一人ごちる。けれどそれは、却って贅沢な感じがして。こういうのも悪くない。知らず微笑みが漏れる。
ゆっくりと大空に浮かびながら、持ってきたサンドウィッチを頬張る。宙空での食事はまた格別で。僕は暫し満足感に浸る。きっと王侯貴族だって、こんな気分は味わえないだろう。
やっぱり、誰か連れが居る方が良かったかなぁ?この開放感を分け合えないのは、この感動を語り合えないのは、ほんの少し物足りなくて。何だか残念な気がする。
だけど…。誰だって、タマには一人になりたい時もあるさ。僕にとっては、それが今日だったというだけの事。だから道連れが居ないのは、仕方ない事だろう。
ブルーに染まった気分を振り払う様に、僕は再び空を見上げる。相変わらずの青空に、やや西に傾いた太陽が輝いて。まだ時間はたっぷりある。そう思い直し、僕は元気を取り戻す。
眼下には一面のパノラマ。海岸に近付いたせいだろうか。ほんの少しだけ、空気は湿り気を帯びて。微かに潮の香りが漂い出す。前方に広がるのは、緩やかな砂丘と、それに続く青い海。疎らに生える木々の上を越して、気球は少しずつ高度を下げる。
やがて波打ち際の程近く、僕は漸く地に降りた。傍には、陸揚げされた大魚の様に横たわる気球。それはつい先刻まで大空を漂っていたとは思えぬ無様な姿で、けれどコイツのお陰で僕は今日一日、ずっとハッピーだったんだ。
「ありがとう…」
ソッと囁いてみる。今日一日、僕に付き合ってくれて。僕に沢山の素敵な景色を見せてくれて。本当にありがとう。そう、言ってやりたかった。
今はもう大地に伏したままの気球の傍で、僕は砂に直に座り込む。そうして徐々に茜色に侵食される空と、空を映して銅に変わる海を見詰める。茜色が更に宵闇の薄紫に覇権を奪われ、それがやがて紫紺から紫黒へ変わるまで。僕はずっと何もせずに、ただ空と海を眺めていた。
こうしていると、全ての些末事を忘れられる気がする。日々の憂さも、人付き合いの煩わしさも。些末事は、遥か後方に置き去りにして。僕が僕自身である為に。今日一日の空中散歩が、眼前に広がる空と海が、僕に本来の自分を取り戻させてくれた。
やがて辺りが闇に覆われた頃、僕はその場に体を横たえた。見上げれば、何も遮るもののない空に、満点の星が輝く。前方に目をやれば、今は黒く染まった海に、白い波頭が走る。耳に届くのは、打ち寄せては返る波の音と、風にそよぐ木々の微かな葉擦。
心地良い疲労感が全身を包み、自然の旋律が眠りを誘う。もう少し…もう少しだけ、ここに居よう。
僕は静かに目を閉じた。
―― Das Ende. ――