疾うに失くした、二度と還る事も叶わぬ世界。
優しい笑顔と愛情に包まれた、あの穏やかな日々。
それは遠い昔、私が人であろうと努めた頃の、微かな残り香。
今はもう、魔境の住人と成り果てた、この身なれば。
生き永らえる為に、人の血肉を求めて止まぬ、この身なれば。
生半可な情など、いっそ忘れてしまいたい。
神に背き、頑なに愛を拒み、闇を統べる者として生きる。
そう割り切れるなら、どんなにか楽だったろう…。
灯りも点けず、真っ暗な部屋の中で、彼はじっと佇んでいた。深い溜息を吐き、窓外の月を見据える。その瞳は昏く沈んでいた。悪夢の様な一週間、この村で起こった全ての出来事が、彼の心を苛み続けている…。
流れ者の自分を慕ってくれた少年の、全幅の信頼を踏み躙ってきた事。自分を信じて頼った者全てを、冤罪と知りつつ弾劾した事。命懸けで信じると言ってくれた相手にさえ、止むを得ずといった風を装い、裏切りの刃を振るった事。そして…今も尚、皆を欺き続けている事。
故人を悼む気持ちに嘘はない。けれど最期の瞬間まで村を憂い、自分を信じて後を託した人々へ、黙祷を捧げる事。それは彼等の死を冒涜するに等しい行為だと、自嘲気味に思う。
「それでも…私は、彼女を護りたかった…。」
己に言い聞かせる如く、低い声音。例えその為に、命を落とす事になったとしても。決して後悔はしない。声には出さず、内心でそう付け加えた。それが裏切り者の一族 ―― 闇の眷属を信奉し、その存在を陰ながら支える家系 ―― に生を受けた、自分の使命なのだから…。
何処からかふらりとやって来た、素性も知れぬ旅人。それがこの村に於ける、彼の全て。別に隠していた訳ではない。彼が自分の事を語らなかったのは、誰も何も訊かなかったからで。何事も無ければ、何もせず立ち去るつもりだった。今迄もずっとそうして来たのだから。
けれど…彼が村を訪れた数日後、それは起こった。街道傍の草叢に打ち捨てられていた、無残な死体。闇の眷族の、最初の犠牲者。その姿を目にした瞬間、彼は悟った。自分自身も半ば忘れ掛けていた使命を、果たすべき時が漸くやって来たのだと。
運命の歯車が、音を立てて回り始めた。
恐怖と混乱の中で、村人達は最早、見知らぬ男の出自を気に留める余裕など失っていた。それどころか、人の姿を借りた魔物を狩り立てる為、広く見聞を積んだ彼の意見を重く用いた。それが、更なる悲劇を生む事になるとも知らずに。
そして今、村人の殆どは鬼籍に属していた。半数の者は、闇の眷属の毒牙に掛かり、無残な姿を晒した。しかし残りの半数は、村人自身の手により処刑された。そうする様に、彼が仕向けたから。
「村を救う為に、多少の犠牲は止むを得ない。」
他に選択肢は無い。彼の言葉に村人達は、座して死を待つよりも、己が手で隣人を断罪する事を選んだ。己のあざとさに忸怩たるものを感じつつ、彼は冷静にその役割を果した。注意深く全員を観察し、護るべき者を疑惑の目から匿い、濡れ衣と知りつつ無実の者を断罪し続けた。
信頼に値せぬ者を信じ、その策を悉く受け入れた、当然の帰結。この村は今、滅びの時を迎えようとしている…。
微かに廊下が軋む音がした。何者かが宿に侵入したらしい。恐らくは、魔物が誰かを襲いに来たのだろう。気配に気付き、旅人は我に返った。
今夜の獲物はこの宿の住人かと、ぼんやり考える。次の瞬間、ここに起居する者は最早、自分しか居ないという事に思い当たった。己の迂闊さに苦笑を浮かべつつ、体ごと対面の戸口に向き直る。
足音は部屋の前で止まった。続いて響いた金属音は、力尽くで鍵を壊したものか。思いの外大きな音に、息を飲む気配がした。
一瞬の間を置いて静かに戸が開く。僅かに出来た隙間から、華奢な肢体が滑り込む。旅人は身じろぎもせず、黙ってその様子を見守っていた。
『彼女』が部屋に入った途端、窓を背にした旅人と目が合った。途端に艶やかな微笑を浮かべる。彼が起きて待ち受けているのを、予め知っていたかの如く。些かの動揺も見せず、穏やかな足取りで歩み寄る。
金色の髪が月明かりを受けて鈍く輝く。まるで陶器の様に蒼褪めた肌を、灼け付く様な赫い瞳と、紅に染まる唇が彩っている。笑みを浮かべた口元から、真っ白な牙がちらりと覗く。
「愛しい人、今日が貴方の最期よ!」
息が掛かるほど間近で、誇らしげにそう宣言する彼女に、彼は戦慄を覚えた。それはまるで、原初の存在と対峙した時の様な。圧倒的な力の差に起因する、生命の危機とでも言うべきか。コレは、人ではない。見掛けは人の形に似ていても、自分と同じ生き物では在り得ない。
「やはり、貴女だったのだな…。」
闇の眷属の、最後の生き残り。彼女を人間の手から護る為にこそ、自分はこの世に生を受けた。この村に訪れたのも、偶然などではない。彼女に出会う為だったのだ。
初めて会った時から、ずっと見守り続けて来た。闇に生きる者と、その存在を護る者との、人目を憚る恋。互いの気持ちを確かめ合う事も出来ず、けれど想いはきっと伝わっていると信じていた。
「私達と人間の恋は、決して実る事はない。でも、貴方が嫌いだった訳じゃないわ。寧ろ…貴方が仲間であって欲しいと…私はずっと、そう願っていたのよ…。」
自分の腕の中で、まるで歌う様に語るその声音に、陶然と聞き入る。彼を真っ直ぐに見据える瞳は、ひどく哀しげで。闇に生きる者の悲哀を、震える声で切々と訴える。脆く果敢ないこの存在を、見捨てる事など出来ないと、改めて思った。
その瞳に浮かぶ涙に気付き、指先でそっと拭う。不意に愛しさが込み上げて、眼前の華奢な肢体を、両腕にしっかりと抱き締める。狂気を孕んだ微笑を浮かべ、その唇に口付けた。
彼女が人を喰らわねば生きられないならば、私は我が身を差し出そう。その苦悩も絶望も、全て私が受け止めよう。彼女の血肉となり、共に生きられるならば本望だと、彼は本気でそう思った。
か細い腕が背に回され、しっかりと掻き抱く。その尋常ならざる膂力に、背骨が軋む音が聞こえる気がした。それでも、彼は何も言わなかった。両腕に彼女を抱えた儘、鋭い牙が喉元に食い込む瞬間を待った…。
翌朝、生き残った人々が目覚めた時、旅人の姿は何処にも無かった。部屋は荒らされた形跡も無く、彼の私物が手付かずで残されている。惨劇の痕跡を伝えてくれるのは、窓際の大きな血溜まりだけだった。
辺境の小さな村が完全に滅ぶまで、それから数日と掛からなかった。頼るべき人を次々と喪い、失意のどん底にあった人々は、為す術も無く闇の眷属の毒牙に落ちていった。それでも尚、残り少ない人々は互いを断罪して止まず、形骸化した私刑行為を続けたのだった。
やがて全ての人間を喰い尽くした魔物は、何処へともなく姿を消した。誰も居ない村に、弔う者もない数多の墓石だけが遺された。時折吹く風の声に混じり、怨嗟と悔恨の嘆きが聞こえる…。
疾うに失くした、二度と還る事も叶わぬ世界。
優しい笑顔と愛情に包まれた、あの穏やかな日々。
それは遠い昔、私が人であろうと努めた頃の、微かな残り香。
今はもう、魔境の住人と成り果てた、この身なれば。
生き永らえる為に、貴方の血肉を喰らった、この身なれば。
生半可な情など、いっそ忘れてしまおう。
神に背き、頑なに愛を拒み、闇を統べる者として生きる。
私を愛した貴方への、それが私なりの愛の証…。
―― Das Ende. ――